プロフィールは完璧だった
第一話「DMから始まる関係」

朝倉小夜が、そのアカウントを見つけたのは、深夜一時を少し過ぎたころだった。
仕事用のノートパソコンには、Kindle出版を希望するクライアントの原稿が開かれている。画面の右側には表紙案、左側には修正メモ。コーヒーはすっかり冷めていた。
小夜の仕事は、個人作家のKindle出版を手伝うことだった。原稿の構成、タイトル案、表紙の方向性、販売ページの文章、SNSでの告知文。作家本人が「書くこと」に集中できるよう、その周辺を整える。
華やかに見えることもあるが、実際は地味な作業の連続だ。
誤字を拾い、見出しを整え、売れそうなタイトルと作品の本質の間で悩む。
そして何より、作者自身が気づいていない“売り”を見つける。
小夜はそれが好きだった。
人の文章には、その人が出る。
隠しているつもりでも、にじむ。
強がりも、憧れも、寂しさも、欲望も。
だから小夜は、知らない誰かの文章を読むのが好きだった。
その夜も、作業の合間にSNSを開いた。特に目的はなかった。タイムラインを眺めて、出版、創作、Kindle、作家募集、そんな言葉を拾っていく。
そこで、ひとつの投稿が目に止まった。
《新作、今日から連載します。
“私”が私でなくなっていく話です。
読んでくれた人の中に、少しでも怖さが残りますように。》
投稿者の名前は、雨宮澪。
アイコンは、淡い光の中で横顔だけを見せる若い女性だった。肩までの黒髪。白いブラウス。少し伏せた目元。
プロフィールにはこう書かれていた。
《小説を書いています。
TSF/入れ替わり/変身/自己喪失。
女の子の心が、少しずつ別のものに塗り替えられていく話が好きです。》
小夜は、思わず手を止めた。
TSF。
性別変化を扱うジャンル。男性が女性になる。女性が男性になる。入れ替わる。身体と心の不一致。自分の輪郭が崩れていく怖さ。
Kindleでも、一定の読者がいるジャンルだった。小夜も仕事柄、何作も読んできた。
けれど、雨宮澪のプロフィールには妙な引力があった。
言葉が整いすぎている。
写真も、文章も、投稿の間隔も、自己紹介の温度感も。
全部が“ちょうどいい”。
小夜は、澪の固定ポストを開いた。
そこには短編の冒頭が載っていた。
《鏡の中の私は、昨日より少しだけ可愛かった。
それが嬉しいと思ってしまった瞬間、私はもう、元には戻れないのだとわかった。》
小夜は、画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
上手い。
ただの変身願望ではない。
ただの性別逆転でもない。
“嬉しい”と思ってしまう恐怖。
そこを掴んでいる。
小夜は続きを読んだ。
文章は静かだった。過剰に説明しない。なのに、肌に触れる布の感覚や、髪が首筋に当たる違和感、周囲の視線が変わる瞬間が妙に生々しい。
女性の仕草の描写も細かい。
けれど、どこか変だった。
小夜は眉を寄せた。
女性を書いている。
でも、女性として書いているというより、女性を観察して書いている感じがした。
可愛い服を着たときの感覚。メイクをしたときの高揚。男性から見られる緊張。
どれも間違ってはいない。むしろ上手い。
でも、少しだけ“理想化”されている。
女の子という存在を、外側から丁寧に磨いて作ったような文章。
小夜は、澪の過去投稿をさかのぼった。
《今日はカフェでプロット。隣の席の女の子たちが可愛くて、会話を聞いているだけで一本書けそうでした》
《女性の身体って、本人よりも周囲の方が先に変化に気づくのかもしれない》
《“もう男じゃない”より、“まだ女になりきれていない”の方が怖い》
小夜の指が止まった。
“まだ女になりきれていない”。
その言葉に、妙な温度があった。
まるで、知っている人の言葉みたいだった。
小夜は思った。
この人、面白い。
そして同時に、ほんの少しだけ怖い。
仕事用のアカウントからフォローすると、数分もしないうちにフォローが返ってきた。
早い。
小夜は軽く会釈するような気持ちで、短いリプライを送った。
《はじめまして。Kindle出版サポートをしている朝倉小夜と申します。作品の冒頭、すごく引き込まれました。特に“嬉しいと思ってしまった瞬間”のところが好きです》
送信してすぐ、心臓が小さく跳ねた。
なぜか緊張した。
相手はただの作家アカウントだ。
仕事でも、何でもない。
それなのに、小夜は返信を待ってしまった。
五分後、通知が鳴った。
《朝倉さん、ありがとうございます。そこを拾ってもらえるの、すごく嬉しいです。変わることより、受け入れてしまう瞬間の方が怖いと思っていて》
小夜は画面を見つめた。
やっぱり、上手い。
返事の文章まで、ちゃんと作家だった。
《わかります。抵抗しているうちはまだ自分だけど、受け入れた瞬間に“変わった後の自分”が始まってしまう感じですよね》
そう返すと、すぐに返信が来た。
《そうです。まさにそれです。
怖いのに、少しだけ救いでもある。
そこを書きたいんです》
小夜は、思わず笑ってしまった。
この人とは話が合う。
そこから、二人のやり取りは続いた。
最初は作品の話だった。
TSFというジャンルの難しさ。読者が求める展開。主人公の心理変化をどこまで丁寧に描くか。タイトルに“変身”や“入れ替わり”を入れるべきか。
澪は、小夜の意見を面白がった。
《出版サポートの方って、もっと数字とか売れ線の話ばかりするのかと思ってました》
《数字も大事ですけど、作品の核が見えないと売り方も決まらないので》
《朝倉さん、作者より作者のこと見てそうですね》
その一文を読んだとき、小夜は少しだけ指を止めた。
作者より作者のことを見ている。
それは、たぶん褒め言葉だった。
でも同時に、見透かされたようでもあった。
《職業病です》
小夜はそう返した。
《じゃあ、私のことも見抜かれますか?》
画面の向こうから、澪が笑っているような気がした。
小夜はすぐに返信できなかった。
たった一文なのに、妙な含みがある。
私のことも見抜かれますか?
それは、作家としての話なのか。
それとも、もっと別の意味なのか。
小夜は、澪のプロフィール画面をもう一度開いた。
アイコンの女性は、相変わらず横顔だけを見せていた。顔全体はわからない。投稿されている写真も、手元、ノート、カフェのカップ、本棚ばかり。
自撮りはある。
でも、どれも顔の一部だけ。
口元。横顔。髪。指先。
不自然ではない。
SNSではよくある。
それでも小夜は、少しだけ引っかかった。
完璧すぎる。
若い女性作家らしい投稿。
繊細な文章。
ほどよく可愛い写真。
自分を出しすぎない距離感。
そして、TSF小説への異様な解像度。
小夜は、胸の奥に浮かんだ疑問を飲み込んだ。
まさかね。
そう思いながら、返信した。
《文章には出ますよ。隠しているものほど》
澪からの返事は、少し間を置いて届いた。
《じゃあ、怖いですね》
それだけだった。
小夜はその文を何度も読み返した。
怖いですね。
軽い冗談にも見える。
でも、妙に温度が低い。
その夜、小夜は仕事を終えたあとも、澪の作品を読み続けた。
最新作の主人公は、二十代の会社員男性だった。ある日、目覚めると女性になっている。最初は混乱するが、周囲から女性として扱われるうちに、少しずつ自分の反応が変わっていく。
よくある設定だ。
けれど澪の書く主人公は、ただ女性化を受け入れるわけではなかった。
嫌がりながら、観察している。
拒絶しながら、学んでいる。
自分の身体を嫌悪しながら、鏡の前で髪を整えてしまう。
その矛盾が、やけにリアルだった。
小夜は、読みながら何度も思った。
この人は、どこまで想像で書いているのだろう。
どこまでが取材で、どこからが本人の感覚なのだろう。
深夜三時。
澪からDMが届いた。
《朝倉さん、もしよければ今度、Kindle出版のこと相談してもいいですか?》
小夜は少し驚いた。
仕事になるかもしれない。
そう思う前に、胸がざわついた。
《もちろんです。作品の方向性を見ながら、販売ページや表紙の相談もできます》
すぐに既読がついた。
《ありがとうございます。私、顔出しも通話も苦手なので、基本DMだけでも大丈夫ですか?》
小夜の指が止まった。
顔出しも通話も苦手。
作家には多い。
珍しいことではない。
けれど、その一文が小夜の中の小さな違和感に、静かに重なった。
《大丈夫ですよ。DMだけで進める方も多いです》
《よかった。朝倉さんなら、安心できそうです》
安心。
その言葉は普通のはずだった。
なのに小夜には、どこか逆に聞こえた。
安心しているのは、澪ではなく、自分の正体を隠せるからではないか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
小夜はすぐに打ち消した。
失礼だ。
会ったこともない相手を、勝手に疑うなんて。
でも、澪の文章を読むほどに、小夜は感じてしまう。
この人は、女性を書いているのではない。
女性になりたい誰かを書いている。
あるいは。
女性として見られたい誰かを。
翌朝、小夜が目を覚ますと、澪から新しいメッセージが届いていた。
《昨日はありがとうございました。
朝倉さんと話していたら、次の作品のタイトルが浮かびました》
続けて、タイトルが送られてくる。
《プロフィールは完璧だった》
小夜は、スマホを持ったまま動けなくなった。
まだ何も話していないはずだった。
小夜が彼女のプロフィールに違和感を抱いたことも。
完璧すぎると思ったことも。
本当は男なのではないかと、一瞬でも疑ったことも。
何も言っていない。
それなのに澪は、まるで小夜の頭の中を覗いたみたいなタイトルを送ってきた。
小夜の背中に、冷たいものが走った。
画面の中で、澪のアイコンが笑っているように見えた。
そしてその下に、もう一通。
《ねえ、朝倉さん》
《完璧な女の子って、逆に怪しくないですか?》
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