わたしは裕美子
第1話 憧れの人

朝のオフィスは、まだコーヒーの匂いが残っていた。
窓の外から差し込む光が、整然と並ぶデスクの上を白く照らしている。
祐二は自分の席でパソコンの画面を見つめながら、ため息をついた。
メールの返信はまだ半分。資料の修正も終わっていない。
隣の席では、キーボードの軽やかな音が響いている。その音の主を、祐二はちらりと横目で見た。
裕美子だった。
長い髪を後ろでまとめ、白いブラウスに紺のスカート。派手ではないのに、どこか上品な雰囲気がある。
仕事も早い。電話 対応も丁寧。社内でも評判の人だ。
「裕美子さん、さっきの資料ありがとうございます」
後ろの席の男性が声をかける。
「いえいえ。もし直したいところがあったら言ってくださいね」
柔らかく笑う。その笑顔に、祐二はまた視線を逸らした。
自分とはまるで違う。そう思う。
祐二はどちらかと言えば目立たない存在だった。特別仕事ができるわけでもない。営業でもないから成果が数字で出るわけでもない。
ミスも多い。課長に注意されることもしょっちゅうだ。
大学を出てから何となくこの会社に入り、何となく毎日を過ごしている。
それに比べて裕美子は違う。
入社して三年目なのに、すでにプロジェクトの中心で動いている。誰からも信頼されている。
そして――綺麗だった。
顔立ちも整っているし、肌も綺麗だ。声も落ち着いていて、話 し方も丁寧。
祐二は思う。(どうしてあんなふうになれるんだろう)
自分と同じ会社員なのに。同じ年齢なのに。世界が違うように感じる。
そのとき、裕美子がふとこちらを見た。
「祐二くん?」「えっ」
祐二は慌てて画面を見る。
「さっき頼まれてたデータ、もう送っていい?」「あ、はい、大丈夫です」「ありがとう」
裕美子はまた優しく笑った。
祐二はその瞬間、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
恋愛感情なのかもしれない。でも、それだけではない。もっと曖昧な感情だった。
憧れ。羨望。そして――
(もし僕が裕美子さんだったら)
そんな想像。もし自分があの人だったら。
仕事もできて。人から頼られて。あんなふうに自然に笑えたら。
人生はきっと、今とは違うものになっていた気がする。
「祐二」
後ろから声がした。振り向くと課長が立っていた。
「この資料、数字が違う」
紙を机に置く。
「……すみません」「ちゃんと確認しろ」「はい」
課長はそれだけ言うと去っていった。
祐二は顔を伏せた。またミスだ。
隣の席から小さな声が聞こえる。
「大丈夫?」
裕美子だった。
「私もさっき見たとき少し気になったんだけど、言いそびれちゃって」「いえ、僕のミスです」「一緒に直そうか?」
祐二は驚いて顔を上げた。
「え?」「すぐ終わると思うから」
裕美子は椅子を少し寄せた。画面を覗き込む。
近い。シャンプーの香りがふわっと漂った。祐二は急に落ち着かなくなる。
「ここ、多分この数字ですよね」「あ……ほんとだ」「あとこの式、少し変えた方がいいかも」
裕美子は慣れた手つきで修正していく。数分後。
「はい、これで大丈夫」
祐二は画面を見つめた。自分一人だったら、たぶん一時間はかかっていた。
「……ありがとうございます」「気にしないで」
裕美子はにこっと笑った。
「祐二くん、真面目だから大丈夫ですよ」
そう言って席に戻る。祐二はしばらくその背中を見ていた。
(どうしてこんなに優しいんだろう)
胸が少し苦しくなる。同時に、思ってしまう。
(やっぱり……)(あの人みたいになれたらいいのに)
そのとき、別の席から声がした。
「祐二くん」
顔を上げる。声の主は、紗季だった。
裕美子の同僚で、少し年上の女性だ。ショートヘアで、どこか鋭い目をしている。
「さっきから裕美子のこと見てたね」「え?」
祐二は慌てる。
「そんなこと……」
紗季は小さく笑った。
「隠さなくていいよ」
祐二は何も言えない。紗季は椅子をくるっと回して、こちらを向いた。
「憧れてるんでしょ」「……」「裕美子に」
図星だった。祐二は苦笑するしかなかった。
「まあ……はい」「綺麗だし、仕事もできるしね」「そうですね」
紗季は少しだけ祐二を観察するように見た。そして、ふっと不思議な笑みを浮かべた。
「ねえ」「はい?」「もしさ」
紗季は声を少し落とす。
「本当に裕美子になれるとしたら」
祐二は一瞬、意味がわからなかった。
「え?」「なりたい?」
祐二は思わず笑った。
「そんなの、無理じゃないですか」「そう?」
紗季は机の引き出しを開けた。そして、小さな瓶を取り出す。
透明なガラスの瓶。中には、白い錠剤がいくつか入っていた。
「これ」
祐二は首をかしげる。
「なんですか?」
紗季は祐二の目をまっすぐ見た。その目は、冗談を言っているようには見えなかった。
「理想の自分に近づく薬」
祐二は思わず吹き出しそうになった。
「え、そんな……」「冗談だと思う?」
紗季は静かに言う。オフィスの蛍光灯が、瓶の中の錠剤を白く光らせていた。
祐二は苦笑した。
「さすがに、それは……」
紗季は小さく肩をすくめた。
「まあ、普通は信じないよね」
そして瓶を指先でくるりと回す。
「でもね」
紗季はもう一度、祐二を見る。
「本気でなりたい人だけが」
その言葉の続きを、ゆっくりと言った。
「飲むんだよ」
祐二は、なぜか視線を逸らせなかった。
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