あなたのまま、嫌いだった私。
第一話
離婚届のある食卓

「……これ、何」
恒一がそう言った時、美緒は味噌汁の湯気を見ていた。
正確には、見ているふりをしていた。
テーブルの真ん中。
冷めかけた焼き魚と、少し固くなった白米と、箸をつけられないままの小鉢。
その横に、白い紙が一枚置かれている。
離婚届。
その三文字だけが、やけにはっきり見えた。
「見ればわかるでしょ」
美緒は静かに言った。
声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。
もっと泣くと思っていた。
もっと怒鳴ると思っていた。
けれど、いざその時が来てみると、心は妙に平らだった。
何度も何度も、頭の中でこの場面を繰り返してきたからかもしれない。
恒一はネクタイを緩めたまま、椅子に座ることもなく立っていた。
いつもなら、帰ってくるなりスマホを見て、適当に「飯は?」と言う。
今日は珍しく、その言葉すら出なかった。
「本気なのか」
「冗談でこんなもの書かないよ」
美緒は顔を上げた。
結婚して八年。
付き合っていた頃を入れれば、もう十二年になる。
目の前の男は、かつて自分を笑わせてくれた人だった。
雨の日に駅まで迎えに来てくれて、コンビニの安い傘を二人で取り合いながら笑った人だった。
仕事で落ち込んだ夜、何も聞かずにプリンを買ってきてくれた人だった。
けれど今の恒一は、ただ疲れた顔をした他人に見えた。
「急に何なんだよ」
恒一の声が低くなる。
美緒は小さく息を吐いた。
「急じゃない」
「急だろ。昨日まで普通だったじゃないか」
「普通?」
その言葉が、美緒の胸の奥を少しだけ刺した。
普通。
きっと恒一にとっては普通だったのだ。
朝、目も合わせずに出ていくこと。
帰宅時間を連絡しないこと。
夕食が冷めていても何も言わないこと。
休日は寝ているか、仕事の電話をしていること。
美緒が話しかけても、「あとで」と言って、その“あと”が一度も来ないこと。
それが恒一の普通。
でも美緒にとっては、少しずつ息ができなくなる毎日だった。
「私、ずっと言ってたよ。話したいって。ちゃんと向き合いたいって」
「俺だって仕事で――」
「知ってる。仕事が大変なのは知ってる」
美緒は遮った。
その言葉を何百回聞いただろう。
最初は心配した。
次に我慢した。
その次に、自分の寂しさを責めた。
夫が大変なのに、私ばかり求めすぎているのかな。
私がもっと支えなきゃいけないのかな。
私が笑っていれば、家はうまく回るのかな。
そう思ってきた。
けれど、限界は突然来るものではない。
水が一滴ずつ溜まって、ある日、器から静かにあふれるだけだ。
「知ってるけど、もう無理」
恒一の顔が歪んだ。
「無理って何だよ。夫婦だろ」
「夫婦だから、無理だったの」
その言葉を口にした瞬間、美緒の胸の奥で何かがぽきりと折れた気がした。
恒一は乱暴に椅子を引いて座った。
その音が、静かな部屋に嫌に響く。
「つまり、俺が全部悪いって言いたいわけか」
「そういう話にしないで」
「してるだろ。俺が仕事ばっかりで、お前を放っておいた。だから離婚したい。そういうことだろ」
「そうやってすぐ決めつけるところも、もう疲れた」
「じゃあ何だよ。言えよ」
言えよ。
美緒は笑いそうになった。
言ってきた。
何度も言ってきた。
義母から電話が来るたびに、遠回しに子どものことを聞かれてつらいと。
会社では年下の上司に詰められて、家に帰ると何もかも一人で抱えている気がすると。
結婚記念日に一人でケーキを食べた夜、本当はすごく寂しかったと。
言った。
言ったのに、恒一はいつも忙しかった。
「もう、言うことがないの」
美緒は離婚届を恒一の方へ少し押した。
「署名はしてある。私のところは」
恒一の視線が紙に落ちる。
美緒の名前。
高瀬美緒。
結婚した時、名字が変わることに少し照れた。
役所を出たあと、恒一が「高瀬美緒って、なんかいいな」と言って笑った。
その時の声を、まだ覚えている。
けれど今、その名前は終わりの印みたいに紙の上にあった。
「本当に勝手だな」
恒一が呟いた。
美緒の指先がわずかに動いた。
「勝手?」
「そうだろ。こっちは毎日働いて、家のローンも払って、将来のために――」
「私も働いてる」
「俺の方が責任が重いんだよ」
その瞬間、美緒の中で、最後に残っていた柔らかいものが冷えていった。
「……そう」
「そうって何だよ」
「恒一は、そう思ってたんだね」
美緒は椅子から立ち上がった。
もう食事を続ける意味はなかった。
味噌汁は完全に冷めていた。
「今日は実家に帰る」
「は?」
「お母さんには連絡してある。明日、少し荷物を取りに来る」
「待てよ。勝手に決めるな」
恒一も立ち上がる。
「勝手に決めたんじゃない。ずっと考えてた」
「俺には相談なしか」
「相談できる相手だった?」
言ってしまってから、美緒は自分の言葉の鋭さに少しだけ傷ついた。
恒一も同じように傷ついた顔をした。
けれど次の瞬間、その顔は怒りに変わる。
「じゃあ好きにしろよ」
その言葉は、低く、投げ捨てるようだった。
「出ていきたいなら出ていけばいい。離婚したいならすればいいだろ」
美緒は唇を噛んだ。
本当は、止めてほしかったのかもしれない。
そんな自分を、心のどこかでまだ期待していたのかもしれない。
だけど恒一は止めなかった。
好きにしろ。
たった五文字で、八年の結婚生活が終わった気がした。
美緒は寝室へ向かった。
あらかじめまとめておいた小さなボストンバッグを持つ。
荷物は少ない。
少ないことに、自分でも驚いた。
この家で八年も暮らしたのに、今すぐ必要なものはこんなにも少ない。
玄関でパンプスを履いていると、背後から恒一の声がした。
「こんな時間に行くのか」
「うん」
「雨、降ってるぞ」
「タクシー拾うから」
そこで会話は途切れた。
昔なら、恒一は傘を持って追いかけてきただろう。
昔なら、美緒も「じゃあ駅まで送って」と甘えられただろう。
今は、どちらもできない。
美緒はドアノブに手をかけた。
「離婚届、書いておいて」
返事はなかった。
美緒は玄関を出た。
外は強い雨だった。
五月の終わりにしては冷たい雨。
アスファルトに叩きつけられた雨粒が、街灯の下で白く跳ねている。
美緒は傘を開いた。
けれど風が強く、すぐに肩が濡れた。
マンションのエントランスを出て、駅へ向かう道を歩く。
バッグが重い。
それほど荷物は入っていないはずなのに、腕にずしりとのしかかる。
涙は出なかった。
出ないことが、悲しかった。
もう泣けないほど、自分はこの結婚に疲れていたのだと思った。
交差点の手前で、後ろから足音が聞こえた。
「美緒!」
振り返ると、恒一が傘も差さずに走ってきていた。
ワイシャツは雨で濡れ、髪も額に張りついている。
ネクタイは外れかけ、靴音が水たまりを跳ねた。
「何」
美緒は立ち止まった。
恒一は肩で息をしながら、怒っているような、焦っているような顔をしていた。
「このまま行くのかよ」
「そう言ったでしょ」
「話、終わってないだろ」
「終わったよ」
「俺は終わってない」
美緒はその言葉に、胸の奥が少しだけ揺れるのを感じた。
でも、もう遅い。
「どうせまた、俺は悪くないって言うんでしょ」
「そんなこと言ってない」
「言ってるのと同じだよ」
雨音が二人の間を埋めていく。
信号は赤。
横断歩道の向こう側に、タクシーのライトが滲んで見えた。
恒一は濡れた前髪を乱暴にかき上げた。
「俺だって、どうしていいかわかんなかったんだよ」
その声は、さっきより少し弱かった。
美緒は目を細める。
「何が」
「仕事も、家のことも、お前のことも。何を言っても間違える気がして、だったら黙ってた方がいいと思って……」
「黙られる方が、ずっとつらかった」
美緒の声が、初めて震えた。
恒一の顔が固まる。
「私、ずっと一人だった」
その言葉は、雨よりも冷たく落ちた。
恒一は何か言おうとして、口を開いた。
けれど言葉は出なかった。
信号が青に変わる。
美緒は前を向いた。
「もう行くね」
「美緒」
恒一が腕を掴んだ。
その手は冷たく濡れていた。
「離して」
「待てって」
「離して!」
美緒が振り払った瞬間、バッグの持ち手が滑った。
中から小さな封筒が落ちる。
離婚届の予備。
役所でもらったもう一枚。
雨に濡れながら、白い紙が横断歩道の方へ滑っていく。
美緒は反射的に追いかけた。
「危ない!」
恒一の声がした。
横から、強い光。
大型トラックのヘッドライトが、雨のカーテンの向こうで膨らんだ。
ブレーキ音。
誰かの悲鳴。
腕を引かれる感覚。
美緒は、恒一に抱き寄せられた。
その瞬間だけ、懐かしい匂いがした。
雨と、煙草をやめた後のシャツの匂いと、昔よく使っていた柔軟剤の匂い。
ああ。
まだ覚えてるんだ、私。
そう思った直後、世界が白く弾けた。
◇
遠くで電子音が鳴っている。
規則正しく、冷たい音。
美緒はゆっくり目を開けた。
白い天井。
消毒液の匂い。
病院だ、とすぐにわかった。
身体が重い。
頭の奥が鈍く痛む。
「……美緒?」
横から声がした。
聞き慣れた声。
けれど、その声はひどく怯えていた。
美緒は顔を向けた。
隣のベッドに、誰かが横たわっている。
自分だった。
高瀬美緒の顔をした人間が、こちらを見ていた。
長い髪。
白い頬。
雨に濡れて少し乱れた前髪。
間違いなく、美緒自身の顔。
けれどその目は、恒一の目だった。
「……恒一?」
声を出した瞬間、美緒は凍りついた。
低い声だった。
自分の喉から出たのは、恒一の声だった。
慌てて手を持ち上げる。
大きな手。
節ばった指。
見覚えのある腕時計。
濡れたまま乾いたワイシャツの袖。
美緒は震えながら、自分の身体を見下ろした。
広い肩。
男の身体。
恒一の身体。
隣のベッドで、美緒の顔をした恒一が、真っ青な顔で呟いた。
「嘘だろ……」
美緒は声にならない息を吐いた。
離婚届を出すはずだった夜。
終わるはずだった夫婦は。
互いの身体の中で、目を覚ました。
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